ー
※これは2014年3月の話です
ルンピニの路地で頬のこけたタイ人青年に捕まる
ワスワサワンという名の青年には、バンコクのルンピニーの路地で出会った。ホテルやマッサージ店が立ち並ぶ通りを歩いていると、道の反対側から悲壮な面もちでこちらを見つめる青年がいた。黒のリュックサックを背負ったジーンズ姿の褐色の青年はとても痩せていた。こちらを見つめる白くて大きな目がなにかを必死で訴えかけているようだった。
少し離れたところでまたふり返る。彼は佇立したままこちらを見つめていた。困惑の最中でなんだかゲイっぽいな、と直感的に思った。俺はあいにく女意外には興味が無い。そして、興味がない相手に道端で適当なターゲットにされているようでいささか不愉快だった。彼には失礼かもしれないが、もしかすると彼の病的な風貌と全身から漂う暗さも不快感を煽っていたのかもしれない。
しかし、彼の表情は依然として悲壮に満ち溢れ、切羽詰まっているように見えた。そこになにか特別な事態を嗅ぎ取ることができた。
彼は手招きをしてこっちへ来いというジェスチャーをした。
(なんなんだいったい?)
無一文で途方に暮れていた
普通なら無視して立ち去るかもしれないが、なにか特別な事情を嗅ぎとってしまった俺は見過ごせなかった。しかし、「こっちに来い」という彼の弱弱しくも横柄な態度には少々苛立つものがあった。だから「用があるならお前が来い」という威勢で、なぜか欧米風に掌を上向きにして指をクイクイとジェスチャーし返した。すると交通の途切れ目を弱弱しく抜けてこっちへ近づいてきた。
「What!?」
俺はもどかしさとイライラを解き放つように両手を広げて言った。その態度は恐怖心の裏返しでもあった。詐欺師かタカリか?それともやはりゲイのナンパか?しかし、悲壮の漂う彼の表情とその人相はどれにも当てはまりそうになかった。近くでみるとやはりげっそりと頬がこけている。小奇麗な恰好をしているがやけに線が細い。
「AIDS」という単語が脳裏をよぎった。タイは東南アジアの中でもエイズ患者やHIV感染者が多いということを知っていたので余計にそう感じたのかもしれない。
とにかく訳の分らぬ状況に戸惑った。
俺は警戒しつつ言い放った。
“What do you want?”(何が欲しいんだ?どうしたいんだ?)
彼は口を開いた。英語がつたない事よりも滑舌の悪さに手こずったが、何度も聞き返した末になんとか彼の言っていることが理解できた。
「助けてください。困っているんです。お金がなくて家に帰れないんです。」
いきなり金をせびって来た彼に邪推が甦った。やはり詐欺かなんかだろうか?しかし人を欺こうととしているようにはどうしても見えなかった。本当に困っているように見えた。そして斜め後ろに聳え立つマレーシアホテルを指差しながら彼は続けた。やはり、もごもごして聞き取りづらい。
「そこのホテルのロビーでドイツ人の男と2時に待ち合わせていたんです。でも3時間待っても彼は一向に現れない。彼に嘘をつかれたんです。もうお金も無いし、彼にメールをするためにネットカフェを使う金もないんです。もう腹ペコです。なにか食べたい。」
そういうと彼はポケットから薄い財布を取り出し中を開いて見せた。中は空っぽだった。
「ほら、これがID」
訴えるような表情で財布からIDを抜き取り見せてきた。写真は確かに彼の顔だった。1985年生まれ、私の一つ年下の28歳だった。とても華奢だったためか若く見え、てっきり20代前半ほどだと思っていたので少し驚いた。
とりあえず飯を食いたまえ
しかし彼の言っていることがまだいまいちよくわからない。家はどこで、そのドイツ人の男は一体何者で、なぜ彼に会う必要があったのか。そして、なぜ彼は今無一文なのか。助けてくださいと言われても、この状況ではどう助けてよいものかわからない。それに俺がどこに泊まっているのかというような彼には全く関係ないことも聞いてきたりして、少し怪しく嫌な気分にもなった。朝からなにも食べていない、腹ペコだというので、まずはご飯を奢ることにした。詳しく状況を把握してから協力すべきだと判断すれば可能な範囲でそうしようと考えた。
「取り敢えずご飯を食べよう。奢るよ。」
彼は安堵した表情を見せた。いったん大通りに出ると、二人ですぐに手ごろな食堂を選んで入った。
彼はポークヌードルをオーダーした。俺は食べたばかりだったので何も注文しなかった。
「水を飲みますか?」
「ありがとう」
店の奥から氷の入ったグラスを二つ持ってきて俺の分も注いでくれた。若い女の子の店員がすぐにポークヌードルを運んできた。店内のお客さんや店員たちは珍しそうな目でちらちらとこちらを窺がってくる。
彼はいたって穏やかに麺をすすり始めた。線が細いとは言え腹ペコの男にしてはやけにお淑やかな食べ方だった。力の無い食べっぷりだ。彼が食べ終わるまで水を飲みながらじっと待った。いろいろききたいことはあったがまずは腹を満たしてくれたまえ。
「お腹いっぱいか?」
ひと段落して箸を置いた彼に聞いた。
「Yes」と頷いたあと丁寧に両手を合わせてお礼をした。
「もっと食べるか?」俺は続けた。彼は首を左右に振った。「もう大丈夫です」。
スリンから売春をしにバンコクへ
「もう少し詳しく説明してくれないか?」
彼はストローで少しだけ水を飲むと、ティッシュで口を綺麗に拭いてから頷いた。しぐさが女っぽい。やはりゲイだろう。
「君はどこから来たの?」
彼は「スリン」と一言答えた。イーサーン地方の特に貧しい県だということは知っていた。
「そのドイツ人とはどこで知り合い、なぜ今日バンコクで会うことになっていたんだ?」
彼は周囲を意識したのか急に小声になり何かを話した。しかし滑舌が悪くてよく聞き取れない。聞き返すと、彼は俺のメモ帳に書いてもいいかと尋ねた。ペンとメモ帳をテーブルの上に差し出すと英文を書き始めた。そこにはこう書いてあった。
“I top. I fuck him. him tell me pay me 1,000B per day.”
(私はゲイ。私は彼とセックスする。彼は一日あたり1000バーツ払うと私に言った。)
ってなところだろうか。
俺はこの時”top”の意味がわからなかった。
しかし文脈や彼の容姿から、彼がゲイであることは概ね想像がつく。
そして後で”top”を辞書で引いてみるとやはり以下のように出てきた。
15、〈卑俗〉〔アナルセックス時における〕攻め、攻め役のホモ〔差別語〕の男性
~英辞朗 on the webより~
彼はペンを置くと、決して晴れない表情で両手を組んだ。次に掌を2、3回パンパンと打ち合わせた。それは性行為を表すジェスチャーのようだった。言葉を使わなかったのは周囲を気にしてのことだろう。そこには彼の抱える後ろめたさも垣間見える。
「彼とはどこで知り合ったの?」
「インターネットのウェブサイト」
彼はサイトのアドレスをすらすらと書いた。そこには”gay”の文字が入っていて、それがゲイの出会い系のようなサイトであることは容易く察しがついた。俺は何食わぬ顔で聞いていたが、内心は少しだけ動揺していた。それは俺の日常とはかけ離れた世界の出来事だった。そして困り果てた目の前の男の存在を媒介として非日常の世界を少しだけ垣間見ている。男が男を買う売春の世界。男が女を買うのだから、男同士、女同士、女が男を買うという売春も当然存在しているのだろうが、食堂のテーブルでまざまざとその事実を突きつけられると、妙にどきっとする。
彼の事情
もし彼が好き好んで小遣い稼ぎの売春をし、そのためにバンコクまでやってきたのなら、ここで終わりにするつもりだった。協力する気も必要もないだろう。しかし、事情は少し違った。彼の言うことが本当ならば。
すでに述べたように彼の実家はスリン県の田舎にある。主に稲作をして生計を立てているという。両親と二人の男兄弟がいるらしい。しかし9月から12月までの繁忙期以外は仕事がほとんどない。そしてその間は収入が途絶えるのだという。それでも食いものだけはある。しかし収入はない。
彼の田舎には仕事もほとんどない。そして街へ出て職探しをするにもある程度のお金が必要だ。しかし彼にはその費用すらままならないという。その費用を稼ぐために、ゲイのサイトで知り合ったドイツ人に体を売るためにはるばるバンコクまでやって来たのだという。片道のお金だけを握りしめて。
しかし、午後二時にマレーシアホテルのロビーで落ちあう予定だったドイツ人にすっぽかされた。お金の尽きた彼はどうする事もできない。残りわずかの小銭を払ってホテルのパソコンを借り例のサイトに書き込んだが、待てども待てども返事の書き込みは無い。仕方なくホテルを出て途方にくれていたところに俺が現れたというわけだ。
彼は口を開いた。そして嘆くように言った。
「本当はこんな事のためにバンコクになんかきたくはないんだ。全てはお金のため。家に帰りたい、でもお金も無い」
途方にくれるように彼は続けた。
「彼から返事が来ているかもしれない。パソコンをチェックしたいが、お金がないからネットカフェに行くこともできない。ああ、どうしよう」
ネットカフェ代くらいなら出してあげようと思った。道端で訴えられかけた時に無視するという選択肢を取らなかったということは、その後の展開への責任も多少は負うべきだろうという考えからだった。それに多少の好奇心がなかったといったら嘘になる。
この際だから少し質問してみた。
「同じ理由でこれまでにもバンコクへ来たことはあるの?地元でも体を売っているのですか?」
彼は小声で何か答えたが、やはりもごもごと滑舌がわるくてよく聞きとれない。またノートに書いた。
“I not tell friend i come bangkok with sex money”
(売春しにバンコクへ来たことは友達には言っていない)
といったところだろうか。
話しを聞くとどうやらバンコクへ売春をしに来たのはこれが初めてのようだ。そして親には「バンコクの友達に会いに行く」と嘘をついて家を出てきたという。彼が書いたように、友達にはまさか体を売りに行くなんてことは言っていない、言えない、とまるで女の子のように頭を揺らした。
彼は疲労感を漂わせながら時折目をつむる。そして重苦しい口を開く。
「This is no good」
彼は嘆くようにそう繰り返した。自分のしていることが間違っているとわかっているが、お金のためにやむを得ずにとった苦肉の策なのだろう。
「家に帰りたい、帰りたい。家に帰ればお金はないがせめて食べ物はある。」
彼は嘆き訴えた。田舎から出てきたばかりで、大都会バンコクを怖がっているようにも見えた。そしてくたびれていた。
彼は続けた。
「彼から返事が来ているかもしれない。ネットカフェを探すから、お金を出してくれないか」
画面上で微笑むドイツ人の男
俺は宿に戻ればipadがあったが、ここからだとネットカフェを探した方が早いと思った。それになるべく自分の宿へは連れて行きたくはなかった。彼を完全に信用したわけではない。そしてここでお金だけ渡しておさらばしてしまえばその使い道を確認することができないし、その先の協力も出来ないだろう。時間にも余裕があったので俺は彼と一緒にネットカフェを探すことにした。
途中人に尋ねながら15分ほど歩くと一軒のネットカフェに辿りついた。店内では数十人の小学生ほどの男の子たちがシューティングゲームに熱中していた。ゲームの電子音がやかましく店内に響いていた。
パソコンの電源を入れると早速その出会い系のサイトを見せてくれた。チャットが出来るサイトだった。すぐに、例のドイツ人の男の写真が現れた。その男は薄暗いバーのような雰囲気のテーブルにひとり腰掛けている。肩肘をテーブルについて顎を支えたまま、カメラに向かって怪しく微笑んでいた。どないやねん。
二人のチャット履歴を見せてくれた。正午ごろからやりとりがあった。青年が書き込んだ履歴があった。
「今ロビーにいるけどいったいどこにいるの?」とかそんな感じだ。それは彼がホテルのロビーで最後のお金を払って使用したパソコンで書き込んだものだった。そして依然としてその男からの返答の書き込みはないようだった。
「No answer」
彼は俺の方を見てそう訴える。そしてまたなにか書き込み始めた。またどこにいるのかとチャットを始める。
するとその直後、例の男がサイト上に現れて返事を書きみ始めた。青年は一瞬驚いて食い入るように読むと、すぐに呆れ怒った表情で俺の方を見つめてくる。画面を指さしてこれを見てくれという。画面を覗くとこうだった。
「ゴメン、具合が悪いんだ、もし明日フリーなら、あした会えるんだけど」
彼はすぐに返事を書き込みはじめた。彼は相当に怒っていた。
「せいぜいがんばれ。なぜ明日なら明日と早く言ってくれないんだ、2pmなんて言うなよ、もう会いたくない。もう僕にかきこむな、ぼくにあいたかろうとなかろうとお前は悪い奴だ。悪い奴にでも会ってしまえ、当たってしまえ、バイ」
それが彼の返答だった。
※タイはゲイの楽園とも言われているようだが、後で調べてみると、ルンピニーのマレーシアホテルバンコクは世界中のゲイの方々の溜り場となっているのだとか、、、。
俺にできること、すべきこと
しばらくして「where do you go?」彼がカモシカの様な目で見つめてくる。取りあえず二人で店を出てさっきの辺りまでとぼとぼ歩いた。もう、お金の尽きてしまった彼は誰かにお金を恵んでしまうしかない。電話も持っていないようだった。今俺がお金を恵んで上げれば彼は帰ることができるだろう。しかし帰りの費用を全額負担する気はなかった。まったくの他人同然の彼に昼飯とネットカフェ代を奢ってあげただけでも十分協力したはずだ。俺はそう思った。
意地悪な質問かもしれないが「これからどうすんだ」と聞いた。
「最寄りのバスターミナルまで行き、そこで電話を借りて家族に連絡する」という。
彼はバス停の前で止まった。ここからバスに乗りたいようだ。そして予想していた通り、彼は金を求めてきた。
「500バーツ恵んでくれないか?」
500バーツあればスリンまでか、少なくともだいぶ近くまでは帰れるのかもしれない。財布の中にも持ち合わせは確かにあった。しかし俺は出し渋った。日本円にすればたった1600円ほどの額だが、ここはタイだ。タイでは安宿なら500バーツで3泊できる大金だ。俺は決して経済的に余裕があるわけじゃない。
そもそも、ここで全額負担してあげたところで、彼の抱えている問題の本質は解決しない。いや、それでも、彼の喫緊の問題を解決してあげることだけでも十分意義深いという考え方もあるだろう。しかし、この時の俺は彼のために500バーツだしてあげる気にはどうしてもなれなかった。彼は身なりも小奇麗だし英語もできる。貧困のどん底で喘ぎ苦しんでいる様には見えないし一定の教育も受けているはずだ。28歳の青年なら、片道のお金だけ握りしめてバンコクまでやってくることのリスクも考慮できるはずだ。もし約束の相手に会えずに金を得ることが出来なければ、ただちに路頭に迷ってしまうことは目に見えている。ならば、もうすこし他の選択肢はなかったのだろうか。ほんの数十分間の付き合いから彼の置かれている状況をくまなく把握することなど出来ない。もしかしたらリスクを背負ってバンコクへ来ざるを得なかった切羽詰まった事情があるのかもしれない。しかしいずれにせよそこの部分が明確に理解できない以上は、情にほだされて要求された金額を与えてしまうようなことは安易に思えたし俺自身のためにもそれはできなかった。
もし500バーツ与えたなら、助けたということよりも、こっちが損した気分にすらなりそうな予感がした。そのときの生理的な感情にしたがった。
バスが来た。「100バーツはダメですか?」彼が乞うように言った。
俺は100バーツ渡した。100バーツあれば次のターミナルか駅まで行って係員らに助けを求めることができる。俺としても、タイ人の抱える問題をタイ人にバトンタッチできるわけだ。そこの繋ぎ目の役割はここまで関わった以上やってしかるべきだろうという判断だった。
彼は両手を合わせてお礼をすると急いでバスに乗り込んだ。すぐにバスはバンコクの交通の濁流の中へ消えていった。
はたして彼にはバンコクで体を売るという以外の選択肢は本当になかったのだろうか。
ありがとうございます。
読んでとても心が切なくなりました。
苦労しているタイの若者、聞いたら大抵農村部から来たと。
華やかなバンコクと地方の格差。
何とも胸が張り裂けそうな気持ちがします。
コメントありがとうございます。
少しの善意と、野次馬根性の様な興味本位から彼に少しだけ関わりました。初めからブログにかく書くつもりでした。
日本の比ではないタイの経済格差、農村部の貧しさを垣間見た気がします。
食べ物があり生きてゆけるのなら、売春する必要はないのではないかというのが私の感覚ですが、じっさいはそうもいかない事情があるのだと思います。
また訪タイしたら、いろいろと書いて行きたいと思います。