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「日本人らしさ」など幻想ではないだろうか?

投稿日:2015年4月2日 更新日:

 

宮本エリアナ2015年ミスユニバース日本代表に選ばれた宮本エリアナ氏。彼女が「日本人らしくない」と一部で批判や中傷が起こった。photo by http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/26/ariana-miyamoto_n_6952598.html

 

世界一の「美」を競う美の祭典「ミスユニバース」で宮本エリアナさんという女性が日本代表に輝いた。彼女はアフリカ系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたいわゆる「ハーフ」の日本女性である。

20歳の彼女はアメリカと日本の二重国籍を持っている。そして22歳になると同時にどちらか一つの国籍を選ばねばならない。彼女はその時に「日本国籍を選ぶ」と明言している。

なぜ彼女が日本国籍の選択を希望しているのか私の知る所ではない。単純に日本人として生きていきたいからなのか、それとも合理性からなのか、もしくはその両方からなのか。いずれにせよ彼女は今の時点で日本国籍の取得を希望していると言う。

長崎県の佐世保市で生まれ育った彼女は流暢な日本語と地元の訛りも操る日本人である。くわえて、米国への留学経験から英語の方も堪能のようだ。日本に生まれ育って人生のほとんどを日本で過ごしてきたということは、彼女の感受性や思考もハーフではない日本人と同じか、それに近い物があると考えて差支えないだろう。

ところが、写真を見ても分かる通り彼女の容姿は現在の日本人の「平均」からはだいぶ離れている。彼女の外見だけを見て彼女が日本人であると即座に見抜ける日本人は少ないだろう。美しい褐色の肌にエキゾチックな面立ち、長身と抜群のスタイルは「日本人的」なビジュアルとはかけ離れている。

そしてそのことが、彼女が「日本代表」としてふさわしくないのではないかという一部の批判や中傷を生んでいる。そうした批判の根っこにあるのは、日本代表は「日本人らしい女性」であるべきで彼女は「日本人らしくない」という見方だろう。とりわけ彼女の「容姿」「外見」が日本人らしくないという主張である。

彼女が「日本人らしい」かどうかはさておき、私はそうした批判は些か「筋違い」だと思う。なぜなら、このミスユニバースという大会はそもそも国ごとの固有性や「らしさ」を求めていないからだ。

 

選考基準として、単なる外見の美しさだけではなく、知性・感性・人間性・誠実さ・自信などの内面も重視される。また、社会に積極的に貢献したいという社会性を兼ね備え、世界80カ国以上から集まる各国の代表と対等に立てるグローバルな女性像が求められる。

 

「日本代表」という言葉に感化されて応援しようとはりきっている人は少々がっかりするかもしれないが、国ごとの予選は単に合理性から組まれたものだと考えた方が妥当であり、国の個性を体現することよりも女性としての普遍的な魅力を兼ね備えていることが望まれる大会となっている。

「日本代表」という看板を背負っていれば、無意識の内に「日本人らしさ」や「日本的特徴」を求めてしまい、そうした「ライン」にそぐわないと思われる人物が選ばれた時に、異議や批判が飛び交うのは心情としては分かる。

宮本エリアナさんの外見が「日本人らしくない」かどうかはさておき、この大会に「国の固有性」や「らしさ」を求める事自体が筋違いのように思う。

少々話は脱線するが、さらに言えばこの大会は、米国企業をスポンサーとした、参加国がたったの80数カ国に満たない、一般の人々が審査に関われない催しである。1952年に始まった世界で最も歴史のあるコンテストのようだが”Universe”と謳うには少々欠陥が目立つ。

「日本人らしさ」とは「傾向」であり、厳密には定義できない。

「日本人らしさ」とは何だろうか。内面的な日本人らしさとは一体何だろうか。外面的な日本人らしさとはなんだろうか。日本人らしい文化的な素養とはいったいどのようなものだろうか。

宮本エリアナ氏はたしかに大方の日本人にはない特徴を備えた容姿をしているが、だからといって彼女を「日本人らしくない」言うことが本当に可能だろうか。どういう肌の色をし、どの程度の堀の深さをもち、どういった目鼻立ちとバランスであれば「日本人」の枠の中に納まり、また納まらないのか。

その枠の外に飛び出てしまった人は、日本人らしくないのだろうか。

どういった心持で日々を過ごせば日本人なのか。どのように人に接し、どの様な気づかいをすれば日本人らしいのか。どのような立ち居振る舞いが日本人然とした態度なのだろうか。

そう言ったことにはたしかに「傾向」としては存在している。日本人にありがちな外見、ありがちな思考、ありがちな立ち居振る舞い、文化的素養は傾向としてはたしかにある。

そう言った傾向は、たとえば違う国の人達と比較してみればより色濃く浮き上がって来るのかもしれない。他の民族や人種と比較して見れば、似通っているが微妙に違っていたり、時には一目瞭然に異質であったりする。

だが、そういったものはあくまで傾向の域を出ない。育った環境や施された教育、持って生まれた性格により個人差もあり、必ずしも絶対的なものではない。いつでもはっきりと、くっきりと「線引き」できるような類のもではない。線引き出来たとしても、ある定義に基づいた仮の線に過ぎない。

2408626550_39c3f3742a_ophoto by tokyoform

 

宮本エリアナさんは「日本人らしい」だろうか。それとも「日本人らしくない」であろうか。彼女の外見はたしかに日本人の平均からは離れているが、それを「日本人らしくない」と言い切れるだろうか。

私の感覚からすると、正直に言って「分からない」と言う他ない。それは日本で生まれ育ち日本国籍を保持している私自身も「日本人らしい」かどうかと問われれば究極的には「分からない」と言うしかないのと同じ意味である。

少々屁理屈染みているかもしれないが、じっさいそうではないだろうか。

容姿にしろ中身にしろ立ち居振る舞いにしろ「らしさ」を規定するのは困難である。決して明確な線引きができるものではない。外見的、性格的、文化的特徴として限りなく日本人の本質に迫る事は出来てたとしても、どこまで行っても不完全な定義のままだ。

 「日本語」は日本人を強く規定し得る

私はタイにいる間、様々な国の人と間違われる。韓国や中国、台湾、マレーシア、シンガポール、そしてタイ人。私は日本で生まれ育ち、流暢な日本語を話す日本国籍保持者である。ところがタイ人や外国人の目から見ると私の外見は日本人と言うよりもむしろ日本以外の東アジアや東南アジアの民に見えるようである。

例えば私が咄嗟にお辞儀をしたり、必要以上に「ソーリーソーリー」とペコペコして居たり、商品を購入したのはこっちなのに屋台主に「Thank you」とお礼を言ったりする。そう言った「日本人的な特徴」を発揮すれば、私が日本人であるという証しになり、傍から見ていても分かるかもしれない。

もっとずっと分かりやすいのは、私が流暢な日本語を話した時だろう。日本語のリズムや音を少しでも知っている人ならば、私の話す流暢な日本語から私が日本人であると見抜けるはずだ。

そして、言葉はそれを話す側にとっても、アイデンティティーを決定づけるほどの影響力を持ったものかもしれない。以下のように、もっとも日本を規定するのは「言葉」ではないかという意見もある。 

 

 

ルーマニアの作家のシオランという人が「祖国とは国語である」と言う言葉を残している。祖国を日本や日本人に、国語を日本語に置き換えてみると「日本人とは日本語である」と言うことが出来る。日本人を最も強く規定するのは日本語だという考え方だ。

 

どの民族も混じり合っていて、純粋な血などと言うものは存在しない。祖国とは国土でもない。ユーラシア大陸の国々は、日本とは異なり、有史以来戦争ばかりしていて、そのたびに占領したりされたりしている。 にもかかわらずドイツもフランスもポーランドもなくならない。祖国とは国語である。ユダヤ民族は二千年以上も流浪しながら、ヘブライ語を失わなかったから、二十世紀になって再び建国することが出来た。「祖国とは国語」P29

 

 

70113222_45d0b17e10_b 「祖国とは国語」。流暢な日本語が日本人を強く規定する。photo by C.K. Tse

私の両親はお互いに日本人であり、私のルーツは日本人という地点に落ち着く。現状では、ハーフやクウォーターと呼ばれる人たちに比べとてもシンプルでわかりやすい。だが、私のルーツを遡れば、もともとどこからやって来たのかなんて厳密には分からない。

おそらく私の血も複数の民族が混ざり合い、その結果いま私がここに存在している。間違われる頻度から言えば、韓国や中国などの東アジア、そしてマレーシアなどの南方系も少しずつ混ざっているのかもしれない。どこのだれであろうと純粋な血というものは存在せず、したがって「純日本人」という人もいない。

我々の体の中には、複数のルーツが入り混じり脈々と流れている。それは普通のことで大変自然なことなのかもしれない。であるならば、国籍を一つに絞るということ自体に本当は無理があり、そこに様々な軋轢や困難が生まれる。容姿が「日本人らしくない」という見方もそういった「無理」が生んだ産物だ。

「日本語が日本人を規定する」という考え方は容姿・外見を問題にしていない。その定規で測れば見た目がどうであれ流暢な日本語が話せれば日本人という判定になる。

ところがそれも完璧な定義にはなり得ないだろう。バイリンガルやトリリンガルはどのように解釈すればよいのだろうか。より流暢で得意な言語がその人物のルーツを決定づけるのだろうか。しかし、2つ3つの言語を見事に高度なレベルで扱う人物がいたら、その場合はどのように規定すればよいのだろうか。

※※※※※

ある元外国籍の男は、日本という国を強く愛しており、日本人として生きていきたいと強く望んでいる。自分が日本人であることに全く疑いがなく、日本の心は私の心であり、私の心は日本の心であると強く感じている。

その人は日本国籍も取得しているのだが、大人になってから日本語を勉強し始めたためにどうしても流暢な日本語が話せない。いくら頑張ってもどこかぎこちのない日本語から永遠に抜け出すことが出来ない。

彼の国籍は日本であり、その覚悟や心意気も並の日本人の比ではないが、流暢な日本語を話せない彼は、国籍以外では日本人と呼ぶには不十分な存在なのだろうか。

はたまた、日本で生まれ育ち日本国籍を持ち流暢な日本語を話すことができ、日本を知りつくしている女性がいるとする。ところが、彼女は日本人として存在していることに異常なほどの嫌悪感を抱き、日本と言う国に嫌気が差し、いつか国籍を変えてやろうと悶々とながら暮らしている。

そんな彼女は法的に日本人であり日本語も流暢だが、それを除けばはたして「日本人」と呼ぶにふさわしい存在だろうか。

国籍という法的なもの以外に「日本人」を最も強く規定しうるのはたしかに日本語という言語なのかもしれない。しかし、日本語を流暢に操れることが常に「日本人」を完璧な形で定義しているというわけでもない。

やはり、日本人を最も規定するのは法的な「国籍」であり、それ以外の尺度となる物差しはいくつか見当たるが、どれも明確さや完璧さに欠ける。いつまでたっても雲を掴むような議論になる。

大変に結構な話だと思う。「流暢な日本語」も「日本の心」も「日本への愛」もその人物を日本人たらしめる物差しにはなりうる。しかしそれは所詮は一つの測り方に過ぎない。これはなにも日本に限らずにどこの「国」にも等しく言える事だろうと思う。

私は自分がはたして「日本人らしい」かどうか分からないし、宮本エリアナ氏の容姿を「日本人らしくない」と批判するのも違和感が残る。

あなたは自分が日本人らしいとなぜ言い切れるだろうか?

-日本

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