タイの旅行中に散々目にしたノーヘルバイク運転手。
その多さに驚いた私は帰国してからもたまにネット上をリサーチしている。
ノーヘルは違法、罰金もある、ヘルメットは安い。
交通死亡事故の70%はノーヘルが原因というデータもある。
なのになぜ老若男女は依然としてノーヘルでバイクを飛ばすのか。
なぜ取り締まりは緩いのか。
これはタイ人の気質もさることながら、彼らの死生観に関わっているのではないか。
そのなことを考えながらネット上を徘徊していると、タイ人の死生観に関するブログ記事をいくつか発見したので今日はそれを紹介したい。
「いたた・・タイ」より抜粋
昨夜○が来訪、食後一杯やりながらPINKさんの本日のブログ<衝撃に弱い方はご遠慮ください・メディアが伝えられないガザの事実―最新情報 >を目を背けつつ見ていた。ふと、○の反応は如何だろうと沢山のパレスチナ人が虐殺されている写真を見せると、ほとんどと言うかまったく動ぜずかつ関心を示さない。理由を聞くと「死んだは死んだしょうがない、私のファミリーじゃないから関係ない」とケンモホロロの取り付く島もないお答え。タイ人は冷たいんだな、可哀相だと思わないのかには「戦争でしょ、しょうがないはしょうがない死んだは死んだ」とまったく素っ気無い。しかし、これはニポン人とタイ人の死生観の相違について説明する必要があるだろう。つまりタイ人の死生観では死はそう悲しいことではなく、成仏して輪廻転生(生まれ変わる)できる出発点であり、むしろ目出度いことなのである。したがって葬式は派手で飲めや歌えや踊れやのドンちゃん騒ぎ、特に金持ちはストリップ嬢紛いのゴーゴーガールを呼んで一週間も葬式を挙行、誰が来てもよいというので一度○の近所でやった葬式に参加して吃驚仰天したことがある。反面、死体(遺骸)そのものへの愛着は無く、一般的には火葬後は花咲か爺婆(灰)となって消滅するため墓は勿論戒名すらなく、四十九日や一周忌・三周忌・十三回忌などの法事は無論無い。そのためタイの新聞・テレビには殺人事件や交通事故などの惨たらしい写真が掲載されるのは日常茶飯事で、ガザの惨殺写真を見てもことさら衝撃を受けるわけが無いのである。特に私が一番ゾッとしたのは○が脳みそが飛び出している写真を見て、先日の丸鶏スープ煮の頭を思い出したようでアレ美味しかったなーとひとこと、いくらタイ人でもそれを云っちゃあオシマイよ。それにつけてもガザ、こんなことが許されていいものか・・人間の本性はやはりアホなのか。
こんな記事も発見。
「★ぞっこん!タイランド★」より
新年早々、葬式に出た。27歳の男の人。
日本の葬式だと、若い人が亡くなった葬式では、
親族は泣きはらした顔をしていて、痛々しくて、
なんと声をかけていいか分からない雰囲気がある。
でもタイは、だいぶ違った。
恋人はさすがに暗い顔をしていたけど、お母さんは、
なんやかんやと大きな声で話しながら、動き回ってた。
昨日十分泣いたから、もう今日は泣かないんだって。
びっくり。明るく送り出そう、っていうことなのかな。
日本もそういうとこあるよね、お寿司とか食べて。
でも、強がりかもしれないし、本当のところは分からない。
けど、もしかしたら死生観が日本と違うのかもしれない。
ミンが死んだことを聞いた時のことを思い出した。
日本だったら、若者の死を話題にする時、ちょっと顔を曇らせて、
「かわいそうにね、若かったのにね。」
と、ちょっと声をひそめながら言うような、そんな感じだと思う。でも、ミンのことを話すとき、近所のおばさんも友達だった子も、
「ああ、死んだよね。」「うん、死んだ死んだ。」とカラッと言うから、
あれ?と違和感を感じた。
私が1人でショックを受けているのがバカみたいに思える雰囲気。前に、信心深いタイ人の女の人が言っていたけれど、
恋しがりすぎると、魂が地上から離れられないんだって。
いつまでも悲しがるのは悪いこと、という考え方なんだろうか。
仏教のことを勉強しているタイ人の男の子に聞いてみた。
その子はミンとも友達だった子。ミンの写真を見せて、
「死んだミンに会いたいって思ったり、泣いたりするのは、
タイではいけないことなの?」
そうしたら、「そんなことない、別にいいんだよ」と言う。
「恋しがるのはタイ人も同じだよ」って。
でも、死んだ人はもう「パイレーオ(行っちゃった)」だから、
ミンの写真はもう、しまっときなって言われた。
はい、その話はおしまいね、っていう感じに。ふむむ…
バンコクに住むタイ人の男の子は、そういうの分からない、
僕は彼女が死んだらしばらくは泣く、と言っていた。人によるのかな。タイの仏教は来世を重んじるって聞くけど、
バンコクのその男の子は、来世を信じてないと言った。タイの仏教は日本より厳しいんだよね、確か。
お坊さんは、女の人に触れちゃいけないし。
仲良くなったと思ったタイ人でも、分からないことがある。
まだタイのことで分からないことがたくさんあるな。
次はこちら、
「Life in Bangkok~波乱万丈バンコクライフ~」より
ニュース番組を見ていたら、殺人事 件で死亡した被害者の遺体映像が流れていた。モザイクもかからず、そのままの姿で。タイのメディアでは遺体映像にモザイクをかけな い。新聞もそのまま写真を載せる。日本ではとてもとても考えられないけれど。遺体写真ばかりを扱った雑誌も出ているとい う。
バンコクに遺体博物館がある。正式には法医学博物館、と云う。タイの国 立病院のひとつであるシリラート病院の敷地内にあり別名シーウィ博物館とも呼ばれている。ちなみにシーウィとは、1950年代初頭か ら数年間にわたり5人もの幼女を誘拐し、不老長寿を授かるとしその内臓を食べていた男の名前。映画にもなったようだ。
この博物館内には、銃殺刑に処されたシーウィの他にも、犯罪者や、異常 胎児・新生児、切断された腕や足などがホルマリン漬けにされて展示されている。壁には、事故や他殺、自殺で命を落とした人 たちの遺体写真が展示されている。どの写真も目を覆いたくなるほど生々しい。
昔、まだ10代だった頃にこの博物館に行ったことがあるのだけれど - あの年頃は何ていうか、無謀で危うて、人生に深く迷っていた-、人生観が変わったような気がする。生と死をきちんと見つめなおせたよ うに思う。今は行かない。幾らかは真っ当になれたから。
日本軍慰霊塔がカンチャナブリ(戦場にかける橋がある)にある。その傍 で出会ったタイの僧侶が言っていた。
「肉体は器でしかなくて、車のようなもの。残念なことに、いくらメンテ ナンスをして大切に乗っていても、年を重ね古くなるにつれて少しずつ、壊れてゆく。そして最後には動かなくなる。それが死。だけれ ど、肉体は魂の乗りものにしか過ぎなくて、魂はまた別のところに行くんだよ。」
肉体は仮のいれもの。そんな死生観がタイの人々の根底に流れているか ら、魂の抜けた身体に抵抗が少ないのかもしれない。
でも、ただのいれものであったとしても、死の間際の感情は伝わるような 気がする。そしてそれはとてもプライベートなものだと思う。
まとめ
日本とタイ、大きく括れば同じ仏教国、しかし異なる部分は多いようだ。
「肉体は器でしかない」というのは日本人の私でも共感できる所もあるが、だからと言って「死体の映像が平気でテレビで流れ
たり」というのはちょっと抵抗があり興味深い。
「うん、死んだ死んだ」とカラッと言ってしまう感覚はやはり日本とは少し違っていて、これならヘルメットなんてかぶらなく
なるのは分かる気がする。
もちろん個人差はあるのだろうけど、やはり根本的な死生観が違うように思う。
非常に面白いブログで、勤務中に(小声)読ませてもらってます。
私はタイ仏教と割と密接に関わっていた事があります。
タイ人の性格と仏教とを絡めて分析する人をよく見ますが、そういう分析は完全に間違いだとは言えないものの、ちょっと見当違いかなと思うものが多いです。
まず第一に、タイ人は皆敬虔な仏教徒である、というのが誤りです。
大半は日本人が初詣に行くのと同様に「習わし」として仏教に関わる程度で、その内容についてはほとんど知らないし興味も無いという人がほとんどです。
国王を崇めるのと同様の感覚で、「とりあえず崇めなくてはならないもの」という感覚です。
実際、過去の国王の像と仏陀の像が並べられており、その両方に「祈り」を捧げる人々がいるのはご存じの通りです。
仏教では「人が亡くなる瞬間にこの世への執着や後悔の念があると、たとえ高い徳を積んでいたとしても不幸な領域に落ちる」と言われており、故に死者を見送る人は死にゆく人にそういう念を起こさせないよう、激しく悲しむ姿などを見せてはならないのだと言われています。
しかし、多くのタイ人の実際の心境はというと、「自分には関係ないし悲しくない」とか「起きたことは仕方が無い、マイペンライ」みたいな、もっと単純なものが多いのではないかと思います。
死体写真を平気で掲載したりするのも、仏教の死生観がどうこうよりも、想像力の欠如というか、遺族のこととか単純に何も考えていないだけな気がします。
こういうのは今後教育の質が高まるに連れて変わってくる気がします。
シーウィーですが、彼は中国出身なので肉体に魂が宿っているとする魂魄思想の持ち主です。
ですので、彼の肉体をミイラにして晒すということが「刑罰」として成立します。
実際、通常なら銃殺処分になるところ、「コイツを罰するにはそれでは不十分だ」という事でミイラにされたと聞きました。
シーウィーは現役で服役中なのです。
貴重なご意見ありがとうございます。
たしかに、タイ人に道をたずねた時の、あの適当な返答の数々。ああいったものも「性格」と捉えれば、性格と宗教の関連性は怪しい部分も多々ありそうです。
民族の性格やなんかは、地理的な要因や気候なんかとも関わっているのではと素人ながらに思ったりもします。
「暑さ」と「マイペンライや怠慢さ」の関係であったり、「豊富な食料事情」だからこその「のんびり屋」だったり。
ウドンタニーのゲストハウスのタイ人オーナーもガハガハと笑いながらそのようなことを言っていた記憶があります。
初めてタイを訪れた時、バンコクのスカイトレインのホームで若い女の子がふと立ち止まり、眼下の仏像に向かって神妙に手を合わせる姿を見た時、たしかに「敬虔」という言葉となにか強烈な印象が頭に焼き付いてしまいました。
しかし考えてみれば、日本で散歩のときに神社の鳥居の前で帽子を取って一礼したり(よくそういうオジサン見ます)、なにげなくお賽銭を投げて拝んでみたりするのと似たような、少なくとも遠からずの感覚なのかもしれないですね。
それにしても、タイにいると、拝んでたり、祈っている人の姿がよく目につくせいか、そういった「習わし」がより彼らの日常や肉体に染みついている感じは否めないというのが正直な所です。まだ合計3カ月未満の滞在ですがそのような印象を受けました。飽くまで日本とタイの比較になってしまいますが。
人が死んだ際の心境の在り方も、仏教観が先か、性格が先に立っているのかと言われれば、そんなものは分からないと言うのが正直な所かもしれないですね。個人差もあるし、たしかにおっしゃる通り、マイペンライの方が近い気もするし(私はタイの葬式に関わった事はないですが)、でも、根底に宗教観がないとも言い切れない気がします。
たぶんそのあたりを白黒つけようとする事にそもそも無理があるのでしょう。
死体写真の掲載、たしかに教育やモラルの不足による配慮の欠如もあるのだと思います。前回とあるタイ人が「死体写真の雑誌は昔より格段に減って、その理由はモラルの問題だ」というようなことを言っていました。おっしゃるように、モラルや教育が進むことによって少しずつ変化してきたのかもしれません。
一方で、教育だけでもない様な気がします。もともと死体専門誌がいくつか存在していた、需要があったというのがタイ独特の状況に思え(他の国の事情も調べる必要あり)、それは教育やモラルが行きとどいて無かったからだけではない気がします。
死生観という「枠」にもかすりつつ、なにか別のもの、なんか、単純にタイ人て死体とか好きなんじゃないかなと。笑 そもそも、死体博物館てなんですか?ってな感じで。
好きじゃなくても、なんだか、そう言ったものに抵抗が薄いというか興味が強いというか。よくわかりません。
シウィーが中国人で、彼は未だ服役中の身だと言うのは初めて知りました。ということは、世界各国から随時面会者多数なのですね、っていったら不謹慎か。笑 私も前回面会してきましたが、、、。
なにはともあれ、もっとタイに長く滞在して、色々と調べてみたいものです。現地滞在者、タイの先輩としてまた色々と教えて頂ければ幸いです。
こんにちは。記事面白く読ませていただきました。
ヘルメットを断固として被らない理由をタイ人に尋ねたことがありますが、
暑いし、ヘアスタイルが乱れるし、何よりダサいから。と返ってきました。
当分ヘルメットは浸透しないだろうなと思いましたね。
コメントありがとうございます。
私個人の感覚だと、「安全のために暑くても我慢して被る」というのが自然かなと思います。
タイ人は「事故ったらどうしよう」などとあまり考えないようですね。
サバーイ(気持いい)、サヌック(楽しい)、マイペンライ(大丈夫)の民です。