表紙には、著者が我が道をゆる~く、とぼとぼと歩いて行く感じがよく出ている。
本書は、下川氏のブログたそがれ色のオデッセイの連載に加筆、修正を加えたもの。
過去の連載で触れたトピックに「その後の○○」という風に加筆がされていくスタイルになっていて、その時間経過が生んだ変化を味わえるのが本書の大きな魅力。
急速に変貌を遂げるアジアの姿、日本と海外との行き来の中で起こる小さな気づきや発見。
著者の「なんでもないような些細な出来事」から、その背後に潜む「アジア」や「日本」を浮き上がらせてみせる腕はさすが相変わらず。
印象に残った章はたくさんあって一つに絞り切れないのだが、あえて挙げるならこれ、「日本人の店が怖い」という章。
日本人の店は、なぜか怖い。つい、ミャンマー人や台湾人、タイ人、そしてアジアの流儀が漂っている沖縄の店に足が向いてしまう。
私はこの時点で著者の言わんとしていることが薄々理解できたが、なんのことらやらわからない人も多いかと思う。著者はこう繋げる。
たとえばどこにでもあるような居酒屋。チェーン店が怖い。こういう店の対応は画一的で、丁寧な言葉の背後に威圧感が潜む。アルバイト店員が教えられる接客マニュアルは、サービスという仮面をかぶったトラブル処理術にも思えてくる。
小料理屋系の小さな店は、料理のレベルは高く、雰囲気もいいのだが、店の人との距離が近すぎる。色々と話さなければいけないかと思うと、暖簾をくぐろうという気になれない。
そこへいくとアジア人が切り盛りする店は楽だ。マニュアルの匂いのする対応もない。言葉の問題もあるのだが、向こうから話しかけてくるようなことはまずない。放っておいてくれる。それでいて店だから、氷がなくなると運んできてくれる。
「我儘!」と受け取る人もいるかもしれない。
でも、アジアの流儀に慣れ、それが肌に合ってしまうと、それを心地よく感じてまうのはよく分かる。そしてマニュアルの件は日本社会的なある種の厳しさを象徴している。
著者自身もそんな己を「それは甘えだとわかっている」と認めているが、私はそれが甘えだとも思わない。放っておいて欲しいタイプの人間にとっては、むしろごく自然な要求のように思う。
さて、さすがに「怖い」とまでは思わない私も、画一的なサービスへのちょっとした嫌悪からチェーン店には寄り付かない暮らしを始めて久しい。「一店もの」の居酒屋が眩しく映ってしまうのだ。
章の後半、話は居酒屋の件からチェンマイのとある日本人ホームレスへと転がる。
第一章にも登場する日本人ホームレスの話は一部の読者の間で以前から話題になっていた。そんな折、マレーシアで会ったとある日本人はやはり尋ねた。
「あのホームレスの人、どうなりました?」
彼は続ける。
「アジアのホームレスは難しいことはわかるけど、同じホームレスになるなら、アジアの方がいいなぁって思うんです。やっぱ日本はホームレスにも厳しそうだから」
「にも」ってのが味噌、その彼は一般人には「もちろん厳しい」という見方をしているのが伺える。そして、居酒屋の件とチェンマイのホームレスの話がいったいどう繋がるというのか。
著者はここでチェンマイでホームレスになったあの日本人と「日本の店が怖い」と感じた自分との間に心理的な共通項を見るわけだ。
そのホームレス、のちのち日本に帰れる金を手に入れても尚、タイにへばり付こうとしばらくもがいたらしい。帰りたくなかったのだ。
その思いとはつまり、
おそらく僕が、日本人の店が怖いといった心境と同じなのだろう
というわけ。もちろんここのには著者の推測も多分に含まれているのだろうが、、、。
私はこういう着想、好きだなぁ。
つまるところそれは日本社会的な厳しさへの拒否反応であり、アジア、とりわけ東南アジアに流れる緩さや寛容さへの救いのようなもの、なのではないか。良いか悪いかはここでは問題ではなく、そういうことなのだと思う。
この手の着想に出会った瞬間に、読んでよかったなぁと私は思う。著者の本ではそういった体験をすることが多い気がする。
さて、「僕はこんな旅しかできない」というタイトル。
しかし裏を返して、「こんな旅ができてしまう」著者にあっぱれ!と言ってみたい。