水の都の名残を味わうために、バンコク運河ボートを乗り尽くそうと思っていた。
まだ生き残っている運河ボートの内、コアな航路は試すことができたはずだが、ついでに運河沿いを歩いてみたいと思った。
以前のある体験を思い出した。
バンコク最大のクロントゥーイ市場。
その端に、スラムのような一帯があった。
スラムの定義はよくわからないが、明らかに低所得層が暮らしている、異様な雰囲気の路地だった。
クロントゥーイ市場の北を流れるどぶ川に沿って、薄汚れた民家の連なりがせり出していた。
そこを貫いているのがその薄暗い路地だったが、好奇心に任せて恐る恐る歩みを進めていった。
しばらくして、難なく大通りへと抜け、ほっとしたただけの平凡な体験だったのだが、そのことを思い出し、またあの路地を歩いてみようと思ったのだ。
地図で調べてみるとこの川は、以前紹介したボートの走っているプラカノン運河と川の東端で合流していた。
無論、川と言うよりは用水路と言った趣で、ここもまたバンコク運河の例に漏れず、生活排水による汚染が甚だしく、時折異臭が鼻を霞めるような列記としたどぶ川だった。
以前歩いた路地を抜けると、大通りを挟んでさらに別の路地が川沿いに伸びていた。
少し怖かったが、入り口を見つけてしまった以上そこで引き返すわけにもいかなかった。
クロントゥーイ市場の東端から路地を抜けカセムラット通りへ
クロントゥーイ市場の東の外れに、川沿いのスラムへの入り口がある。
市場の北側の通り、混沌と雑踏を抜けると人が疎らになり、道の両脇には小さな工場が連なり始める。
この辺まで来ると旅行者は明らかに場違いで、時折向けられる作業員の不審げな視線に緊張の糸がピンと張る。
リヤカー屋台の中年女性と目が合い、タイ語で軽く挨拶すると”pai nai(どこへ行くの)?”
僅かな笑みを含んだ彼女の表情に、自分がここにいていいんだという安心感を得る。
タイ人ではないと分かった様で、”where you go ?”と言い直される。
“Over there. can I go through?”と指を差して尋ねてみると、通り抜けれるわよと言われ、特に危険な場所でもなければ、自分が通っても問題ないのだという事を悟る。
じつは、これによく似たやり取りは前回もあった。
入り口の脇に老婆が座り込んで何やら作業をしており、指差すと、行けるよというような仕草をされて、少し安心したのを覚えている。
前回と違い、すでにタイの路地やその景色にもだいぶ慣れていた。
そのせいか、それほど異質な空気を感じはしなかった。
しかし、状況は同じだった。
あけ放たれた扉から覗き見る民家の中は薄暗く、テレビの光や、ランプの灯りがむしろ暗闇を引き立てていた。
寝転がっている住民の姿もあり、窓のすぐ奥にはどぶ川が控えている。
通路の脇の椅子で近隣住民がくつろいでいたり、雑談していたり。
野良ネコはいるが、野良犬は見当たらない。
唯一、民家の中でくつろいでいた飼い犬らしい3匹と目があったが、まさか追いかけてくるようなまねはしない。
大通りにでた。
4年前もここにあった売店で、コーラを飲みながらしばしテーブルで休憩する。
特に危険な路地というわけではない。
ここから少し離れた所にはバンコク最大のスラムがあるが、そこですら身の危険を感じるようなことはないというのが潜入者たちの共通した意見だった。
ただし、ここが地元の人間しか通らないようなレアな通りであることは確かで、部外者が侵入すれば不審な目で見られたりはする。
ましてや、民家のすぐ外を、室内を覗きながら通れるという距離感である以上、中には部外者の往来をよく思わない住民もいるに違いない。
橋から眺める民家の連なり
川を跨ぐ橋から、いま歩いてきた民家群を眺めてみると、民家の調理場や物干し場が川の方へ飛び出している様がなんとも生々しく目に飛び込んで来る。
地図で確認してみると、川の西端はラーマ3世通りをちょっと上ったあたりでさらに細くなって、ついに途切れてしまう様だった。
水の滞りもさぞ甚だしいことだろう。
カセムラット通りを渡ると、そこにも川沿いの路地があった
カセムラット通りを渡ると、反対側の川沿いにもおなじように民家が連なっていた。
橋の付け根の所に立った巨木の陰の少し下がったところが、川沿いを歩ける路地への入り口だった。
気が付いてしまったからには、入らないわけにはいかない。
こっから先は、未体験ゾーンゆえ、さらなる緊張感がある。
通路を覗いてみたが、やはりおっかない。
ここから写真だけ撮って引き返そうかと逡巡していると、奥から誰かが歩いて来た。
いったん大通り側に逃げて彼がバイクで立ち去るのを待った。
今度は、中年女性が大通り側から路地に入り込んでいったのに勇気を得ると、意を決して侵入。
路地は静かだ。
さっきもそうだったが、奥へ入り込むにつれて、大通りの喧騒が薄まっていく。
なにやら作業中の兄ちゃんと目があい、このまままっすぐ抜けれるのかというようなことを尋ねると、一瞬声を掛けられたことに戸惑ったのかきょとんとしたあと、「ダ~イ(出来る)」と答えた。
混濁した川面は決して美しいものではなかったが、対岸の民家や川辺の生活を感じるのはいいものだった。
歩いているのは紛れもなく貧困地区であったが、少なくとも川辺に暮らすという一点においては、タイの伝統的生活様式が継承されていた。
もしこの川がもう少し綺麗で、川面にボートや商店船がぷかぷかと浮かんでいたなら、もういう事は無しかもしれない。
路地は途中カーブしていたりする部分もあるが、基本的にこの川沿いを走っている。
路地は、民家の延長のようでもあり、団欒の場でもあるように見えた。
ある所では、路肩の椅子に座った少年が中年の女性にシャンプーされていた。
路肩のテーブルで、なにやら仕込みをしているものもあった。
住民の団欒模様があり、ぐうたらがあった。
やはり、外国人の部外者であるとすぐにばれてしまうため、好奇と警戒の目で見られていた気がする。
数人のおばちゃんと、30代くらいの男の前を通るとやはりこちらをじろじろと見ている。
サワディークラップと挨拶をして、まっすぐ抜けれるかときくと、大丈夫だみたいなことをいっていたが、通り過ぎた後に背後で「イープン、イープン(日本人)」とこそこそ話しているのが聞こえる。
振り返ると、またなにやら言っていたが、問題ないようだった。
ちなみに、男の方は明らかにゲイだった。
こんなところにもちゃんとゲイがいると言うのは、さすがゲイ大国のタイだと思う。
パラソルが立ったT字路の所で、数人のおばちゃんや幼児が団欒していた。
また挨拶してこの先に行けるかと聞くと、大丈夫のようなことをいったが、”go, go”と、さっさと行け、あっち行けみたいな風に言う小太りの女がいた。
その、きかなそうな顔の女は”go home! go home!”と、威圧するように騒いでいた。
すると周りの女たちはそれを見て笑っていたが、あの小太りだけはどうやら部外者が気にくわないようだった。
恰幅のいい、眼光の鋭い青年が、家の入り口のところに寄りかかって、時間を持て余していた。
こちらをじっと、不審そうな目で見ている。
奥には、母親と幼児が二人、ベンチに座っていた。
彼らの前を通り際、いちおう挨拶したが、二人とも、不審そうな顔のままでシカトした。
そこが、この路地の最終地点の様だった。
通りは右に折れて、開けていたが、向こうの方で野良犬が2,3匹、ゴロゴロしている。
そのうち、白い中型犬と目が合い、奴がこちらを意識してしまったことが分かり、先へ進む気にはなれない。
この先には恐らく、バンコク最大と言われるクロントゥーイスラムが広がっているはずだったが、ここまでの道のりで疲れてしまった。
引き返すことにした。
背後の男と女のひりひりする視線を感じながらも、両手を腰に置いて野良犬の方を眺めながらふ~っとため息を突き、その後しれ~っと彼らの前を通り元来た道を引き返した。
するとまた、パラソルの所で、小太りの女が、タイ語でなにか喚いている。
うるさい女だ。
かなり人相の悪い、厳つい中年男とすれ違う。
確かさっきすれ違った男で、うろうろしている部外者を怪しんだのか、それとも道を教えてやろうと考えたのか、目が合ったので挨拶すると、
“where you go ?”
「タラートクロントゥーイ(クロントゥーイ市場)」
適当にそう答えると、ああそうか、ならそっちでいいんだと納得した様子だった。
挨拶すると気持ちよく返してくれる住民もいれば、不審な目でじっと見つめたままの住民、go home !とやかましい女、時には完全に無視すると言った冷ややかな態度を示す住民も少なからずいた。
特に危険な場所ではないはずだが、腫物に触るような街歩きになるなったことは間違いない。