「白い肌」に憧れる人々
あなたの肌は透き通るような色白だろうか?それとも健康的な小麦色の肌をしているだろうか?
日本人はいわゆる「黄色人種」に分類されるが、じっさいには黄色と言うよりはもう少し白みがかった肌の色をしている。絵具の「肌色」がそれに当たり、その色合いとは黄色人種である日本人の平均的な肌を表している。
そんな日本人の平均的な「肌色」は、例えばタイ社会では「色白」に部類される。ご存じのようにタイは褐色のタイ族が人口の約8割を占める国だが、日本人の平均的な「肌色」はタイで非常に好まれやすい。
それは、タイ社会において絶対に欠かせない美人、美男の条件が「色白であること」だからである。たんに色白というだけで、結構持て囃される。
日本の三大美人の一つ「秋田美人」にとっても「色白できめ細やかな肌」は欠かせない要素になっている。たしかに、日本でも色白の女性を美人とするきらいはあるにせよ、それでもただ色が白いってだけでそこまで持て囃されるという風潮もない。
反対に小麦色の肌が健康的で美しいとする感性もあり、日本において肌の色が美の基準としてそこまで大きな影響力を持っているとは思えない。それはあくまで一つの要素に過ぎない。
それに比べると、タイ社会は少々異常だ。白い肌の持つ威力は日本の比ではない。それはもはや「色白崇拝」と呼んで差支えないほど絶対的な美人の条件として君臨しており、女性達は日々少しでも美白を手に入れようと必至に努力して止まない。
この国では、白い肌、美白であることは一種のステータスとも言える。白い肌への羨望の眼差しは絶えず注がれ、それは人々の憧れであり、理想の肌の色となっている。
そしてこれは美人の条件のみならず、同時に美男子の条件でもある。女性も男性も白いとモテやすい傾向にあるのだ。タイで白い肌が好まれるのは単なる褐色の肌をしたタイ人たちの「無い物ねだり」なのだろうか?
もちろんそうした側面もあるわけだが、面白い事に、この色白崇拝の背景にはタイ社会独特の事情が横たわっている。いったいどのような理由が隠れているのだろうか。
色白への憧れは尽きない。たんなる「無い物ねだり」だけではないようだ。photo by Jose Santiago Tan
バンコクや北部では色白のタイ人をよく見かける
ネプチューンの名倉氏は一頃、自らの面立ちを「タイ人」に喩えて笑いのネタにしていたが、あの容姿がともすると大方の日本人が抱いているタイ人(特に男性)のイメージなのかもしれない。
それは、日本人よりも堀が深くいわゆる濃い目の面立ちだあり、なによりも日本人に比べて濃い褐色の肌のイメージだろう。
タイを訪れたことがない人ならば尚更そうした観念が出来上っている。あのネタが「笑い」として機能していたことが何よりもその証拠となっている。
もっとも、タイ人に似ているというだけで「笑い」が生まれるというのはタイ人にとっては少々失礼な話かもしれない、、、。
海外のテレビ番組で容姿が日本人のようだというだけで笑いのネタにされ、そのネタが笑いとして成立していたとしたら、たぶん、あまりいい気分がしない人も出てくることだろう。
それでも笑ってしまう。”My face is Thailand(私の顔はタイランド)” photo by https://www.youtube.com/watch?v=EnVaGaoINY8
ところがじっさいには、バンコクやタイ北部の街を歩いていると日本人とそう変わらない「肌色」をしたタイ人たちが頻繁に見受けられる。
タイの首都バンコクは国内で最も多くの中国系タイ人が暮らしている都市だろう。街を歩いていれば一目瞭然だが、数えきれないほど多くの華人系タイ人とすれ違うことになる。
タイ北部にしてもそうだ。顔の作りにしても、どちらかというと日本人に近く、そこまで堀の深くない面立ちの人が多かった記憶がある。
絶対とは言えないものの、色白の肌をしたタイ人の多くは中国系か、もしくはいくらか中国系のルーツが入り混じっていると考えられる。
また、多民族国家と呼ばれるタイ王国には、華人の他にもいくつかの民族が共に暮らしている。各民族ごとの人口比率はざっと以下のような割合になっている。
- タイ族75%
- 華人14%
- そのほかマレー族、クメール族、カレン族、ミャオ族、モーン族、ヤオ族、ラフ族、リス族、アカ族など11%ほど
もちろん、それぞれの割合はあくまで概数であり、それに加えてタイでは各民族同士の混血がかなり進んでいると言われており、それぞれの民族をはっきりと分けることは困難のように思う。
中国系タイ人の割合は10%とも14%とも言われており、いずれにせよその割合は全体の半分にも到底及ばない非常に小さな数となっている。
一方で、「中国系の血が混ざっていないタイ人は存在しない」と言った少々極端とも取れる意見も散見される。
こうした意見の示す所はおそらくこういう事だろう。
それは、タイ人のルーツそのものが中国南部にあるという説に起因する考え方だと思う。長い年月をかけて中国南部から南下してきた今で言うところの「中国系」の民がタイ人のルーツになっているといわれており、例えば現在全体の8割にも達すると言われる多数派の「タイ族」の体の中にですら、一滴や二滴は中国系の血が混ざっていると考えるのが妥当だろうという意見である。
タイ人ならば誰であっても祖先を遡ってゆけば、必ずどこかで中国系のルーツにも突き当たるはずだということだろう。じつに厖大な数のタイ人が、何だかの形で中国系のルーツと関わりを持っていると言う事になる。
喧騒に満ちたバンコクの中華街。象徴的に「金行」が赤々とひしめいている。一度は埋もれてみたい魅力的な街だ。photo by Josh Chin
タイの財閥のほとんどが「中国系」「華人」
人口は全体のほんの14%ほどに過ぎないのだが、中国系タイ人はタイ社会において抜群の存在感を発揮しており、その点がとても際立った特徴と言えるだろう。
タイの経済的格差は日本の比ではない。持つ者と持たざる者の差は日本以上に歴然としており、下層から上層に這い上がるのもまた非常に難しい社会構造になっている。
経済発展著しい首都バンコクの街並みは、まさに先進国のそれと遜色のない姿に変化してきている。摩天楼は南国の空を打ちぬき、夜のネオンはすこぶる煌びやかだ。
一方で、下町の路地を奥へと進めばやはり、薄汚いスラムのような一帯も健在しており、「貧富の差」がはっきりと浮き彫りにされて目に飛び込んでくる。
バンコク市内のとある川沿いの民家の連なり。伝統的なタイを連想させる風情ではあるが、裕福とは言い難い暮らしが川沿いには多い。(2014年3月頃撮影)
タイ社会において、タイ東北部(イサーン)や北部の農村地帯は貧しさを象徴する地域となっており、こちらもまた都市部との経済的な落差は甚だしい。
もちろん、タイは食料には事欠かない「豊かな国」だから、いくら貧しくともそう簡単に飢え死にすることはないはずである。また、仏教国のタイではタンブンという徳を積む行為が奨励されており、貧しい者に分け与えることを厭わない風潮があるためか、余計に貧しくとも生きていけるのかもしれない。
しかし、生活レベルの向上や物質的な豊かさへの渇望からか、農村地帯からバンコクなどの大都市に出稼ぎにやって来るのはよくある話である。
そうした地方から都市部に出稼ぎにやってくる人々の多くが「タイ族」としてのルーツを持っており、彼らの肌の色は褐色である場合がほとんどだ。
出稼ぎで就く仕事は、屋台の店主かもしれない。タクシーやトゥクトゥクの運転手に出身地を尋ねれば多くの場合「イサーン(タイ東北部)」という答えが返って来る。女性であれば当然、夜の商売も大きな稼ぎ口になっているはずだ。バンコクのゴーゴーバーのステージで色気を滾らせて踊っているのは大抵貧しい農村地帯からきた褐色の出稼ぎ者たちだ。
一方で、タイ社会において中流以上の家庭の多くを占めるのが前述の中国系タイ人たちである。彼らのほとんどは比較的豊かな暮らしが約束されているし、より多くの選択肢を持っている。
例えば、タイで大学まで進学するにはそれ相応の家庭環境がなければ不可能であり、タイ農村部の出身でありながら高等教育を受けることが出来る人と言うのはほんの一握りに過ぎないのだが、対して中国系のタイ人であれば、大学進学などの選択肢もぐっと身近なものになってくる。
また、財閥のほとんどが彼ら中国系タイ人であるとも言われ、その他にも財政会からメディア業界に至るまで、見方によってはタイを「牛耳っている」のが中国系タイ人である。(「牛耳っている」という表現がそれほど適切だともいえないタイ独特の風土もあり、詳しくは後述していきたい)
こうした社会構造の中で「富裕層=中国系タイ人」という図式が成り立つのがタイ社会の特徴だと言え、「タイは隠れた華人国家」などと言い表されることもある。
そして、彼らの肌の色は大概白い。だから自然と「中国系タイ人=お金もち」=「色白」という図式も成り立つ。
これが、タイ社会において「色白」であることが良しとされる大きな要因になっている。白い肌は豊かさの象徴であり、ステータスであり、また理想なのである。
美人かどうかの基準としても「色白」が非常に大切な判断基準になっている理由もこれと無関係ではなく、むしろ大きな影響を受けているようである。
この点に、例えば日本人の言う「色白美人」の感覚やその意味する所とは似て非なるものの本質がある気がする。
たとえばそれは「透き通るように美しい肌」といような単なる視覚的な美を超越しているわけだ。
それは「高貴さ」や「気品」といった上流階級のイメージに繋がり、また「社会的強者」のような優越感を伴いながら、「憧れの肌色」にまで昇華している可能性があるのだ。(私の思い込みも入っているかもしれないが、、、)
もちろん、皆がみんなというわけでもないだろう。褐色の肌に憧れを持った色白のタイ人もいるかもしれないし、自分の小麦色の肌が大好きで誇りを持っている方もいることだろう。
「美」の基準が、個人的な好みや趣向によりけりなのはもちろん言うまでもない。
とにもかくにも、タイ社会における「色白崇拝」の背景には、社会の上層部に君臨している中国系タイ人の存在感という、タイ独特の社会構造や事情がずっしりと横たわっているわけである。
彼らは「一つ屋根の下」で見事に同化している
タイ人の性格をよく表した言葉に、お馴染みの「マイペンライ(気にしない、大丈夫)」というものがある。これに「サバーイ(気持ちいい)」、「サヌック(楽しい)」と続けば、晴れて一人前のタイ人の出来上りである。
さて、あなたは「中国系タイ人」と聞いてどのような人々を思い浮かべるだろうか?
もし私がタイの事情に疎いままに「中国系タイ人」と聞いたなら、こういうイメージを思い浮かべるだろう。それは、タイ人よりもいわゆる「中国人色」の濃い人々のイメージだ。
つまりそれは、ぐいぐい来るような中華思想の持ち主であり、どこへ住みついてもこしらえてしまう中華街であり、現地でも「中国」を貫く頑なな姿勢のようなものだ。
ましてや「タイは中国系タイ人に牛耳られている」と言われれば、なんだか不穏な風が吹き荒ぶ。タイへ行く暁には、彼らが変わらず抱いているはずの強固な反日感情に十分に警戒するかもしれない。
ところが実際の状況は全くと言っていいほど異なる。彼ら中国系タイ人は列記としたタイ人なのである。
たとえ体の中に中国系のルーツを持っていたとしても、あくまで「タイ人」であることがアイデンティティーの核になっている場合がほとんどなのである。彼らは敬虔な仏教徒であり、国王を愛して止まない。
そのあたりが他の国に住む華人とタイの華人との大きな違いと言えるだろう。あくまで彼らはタイ人なのであり、そのほとんどが、程度の差こそあれ、マイペンライ、サバーイ、サヌックを地で行く民と言える。
信仰は同じ仏教であり、能天気な性格、おっとりしたしぐさ、控え目な態度はタイ人そのもの。判別の基準は色白かどうかくらいだが、それも当てにならない。
中国系タイ人のもう一つの特徴は北京語が話せないこと。70%は広東省の満州人、あとは客家(はっか)もしくは福建人。漢字も読めない。タイ語を話しタイ語に馴染む。
東南アジアの他の国では、中国系どうしで固まる傾向にあり、北京語の学習とともに中国人としてのアイデンティティーも植えつけられる。華僑VS非華僑の構図での争いになりやすいがタイはそうなりにくい。(極楽タイ暮らし、より)
たしかに中国系タイ人はタイ族系の人々に比べると働き者で商売気質ではあると思う。その結果が現在のヒエラルキーを生みだしているのは事実だと思う。彼ら中国系タイ人の多くが社会の上層部に君臨している。
しかし、ルーツや民族的な特性はどうであれ、概ねどなたも「タイ人」いう大きなアイデンティティーの枠の内に納まっており、みんなそれなりに平和に暮らしているわけだ。
もちろん、「中国系のタイ人は同じ中国系のタイ人としか付き合わない」などと言う風に、階級を越えた繋がりや交流を避けて暮らすといった階級社会共通のスタイルはあることだろう。
社会の上層に行くに連れて結果的に中国系タイ人の割合が高まり、別のいい方をすれば肌の色が薄まって行くことになる。しかし、そのことが例えば「華人VSタイ族」という風な対立構造を生む原因とはなっていない点がどうやら現在のタイ社会独特の際だった特徴だと言える。
そして、このようなタイ独特の「華人の同化」も、色白崇拝に少なからず影響を与えているのではないかと私は思う。「対立」ではなく「同化」が成功しているがゆえに、色白であることが「憧れ」や「理想」、「ステータス」というベクトルへ向かい得るのではないだろうか。
もちろん、軋轢や反感、嫉妬などの感情が全くないとは思わない。中国系タイ人の「跋扈」に対して、穏やかならざる心中のタイ族系タイ人も少なからずおられるのではないだろうか?
しかし仮にそうだとしても、それは目に見える対立や衝突を生むほどのレベルではないようなのである。
タイの華人たちは見事にタイに同化しており、これといって際だった対立構造も生まれていない。そして、彼らの多くはやはり敬虔な仏教徒であり、もちろん国王へ敬意も持ち合わせたタイ人なわけだ。
チェンマイ美人
さて、美人の話に戻りたいと思う。
日本の古都、京都では京美人が「おいでやすう」と言って上品な微笑を浮かべているが、タイの古都チェンマイも美人の名産地として名高い。色白でスタイルのいいチェンマイ美人はとても有名である。
タイのバンコクと同じく、タイ北部やチェンマイにも中国系タイ人は多いと言われている。これは、地理的に中国に近いことも関係しているのかもしれない。そして、タイの中では割と涼しい北部の気候も、色白の人が多いことに影響しているのだろうか。
美に対してのこだわりが強い国なのだろうか、タイはミスコンの多い国としても有名のようだ。年間に開催されるミスコンの回数は70とも80とも言われている。そんな中、北タイ出身の女性がミスタイに選ばれることも少なくないらしい。やはりタイ北部は美人の名産地といっていい。
タイ語がほとんど分からない私の知るところではないのだが、聞くところによるとタイ女性の喋る北部の訛りというのはチェンマイ美人を連想させるようで、たとえばバンコク人の耳にはその音調がとても上品な印象と共に響くらしい。
それは、日本でいえば京都弁のような位置づけになるのであろうか?
噂のチェンマイ美人。たしかに綺麗だ、、、。photo by Eric
美脚へのこだわり。脚が長くて綺麗
タイ人女性は色白に憧れるわけだから、当然のごとく美白製品を好んで使用する傾向にある。したがって、美白関連の化粧品も多く、同時に、これもまた当たり前だが、日焼けや紫外線を極度に嫌う人が多い。紫外線対策には余念がないだろうし、少々度が過ぎるほど不自然な白いメイクで覆われたお顔を目にすることもある。
一年中熱っぽいタイとは違い、温帯気候の日本では夏を除けば涼しい気候である。そうした環境の中で育まれる日本女性のきめ細やかな肌は、タイ人女たちにとっても羨望の的かもしれない。
美白へのこだわりは常軌を逸したものがあるのだが、その他にも「美脚」はタイの美人の重要な要素となっており、これも民族の身体的な特徴なのだろうか、たしかに脚の綺麗なタイ女性は多いという印象を私も持っている。
日本女性は往々にして色白で美人だと評価するタイ人は多いが、そのような中で、日本女性を憤慨させ得るこんな陰口も定番らしい。
一般のタイ人は肌の白さをもって「日本人はきれいだ」と言うが、陰では口を揃えて「日本人の脚は象の脚」と呼んでいる。(極楽タイ暮らし、より)
ん~、さすがに象の脚は言いすぎではないだろうか?
それを言うならやっぱり日本風に「大根脚」と言い表すくらいがちょうどいい例えでしょう。と私などは思うわけだが、皆さんはどうでしょう?ましてや、色白なわけだしやはり大根がしっくりくる。
しかも、タイにおいて象は「神聖な神様」のはず。これでは日本人女性の太い脚のみならず、自分達の神様である象も同時にディスっていることになりはしないだろうか。
象を崇めつつも、内心はその太い脚をバカにしていたのだろうか?
日本女性の脚は象の脚?Erik van Roekel
「美脚」は大抵の国でも美貌と切り離せない要素ではあるはずだが、タイ女性も綺麗な脚に入魂し、そのこだわりは時に常軌を逸するものがある。
タイ人女性の美脚への強烈なこだわりが垣間見えるあるエピソードも同書の中から紹介したいと思う。この女性はいわゆる過去に「じゃぱゆきさん」と呼ばれた日本への出稼ぎ組であり、ゆえに、タイではけっして経済的に恵まれていたわけではない方だろう。
私の友人たちは、その悲運の女性のドキュメンタリー番組を撮っていた。その取材の過程で、タイで彼女が残した遺品の中に、一冊のノートを見つけた。それは、タイ人の若い女の子が好む、日記やら自作の詩やら絵やら空想の恋人に当てたラブレターなどが記された雑記帳であったが、友人たちを驚かせたのは、それよりもノートの最初のページに貼り付けてあった「脚の写真」だったという。
「脚の写真」とは何かというと、ふつうのプリント写真から上半身と背景を削除した文字通り「脚」だけの写真なのだ。ひじょうに綺麗な脚だったが、同時に非常に不気味な写真だったという。おそらく、エイズに蝕まれる前の美しかった頃の自分の姿を残したかったのだろうが、それなら全身写真でどうしていけないのだろうか。というより、日本人なら誰もがそうするだろう。脚だけの写真なんて、ちょっと異常だ。
しかし、タイ人はそう思わないのだと言う。友人の奥さんはタイ人である。「脚だけ写真」の意味をすぐに説明してくれた。まず、脚がきれいである、ことに傷一つないというのは、農作業をしたことがないというイメージに結び付くのだと言う。つまり、街の出身、もしくは裕福な家庭の出であるというアピールなのだ。(極楽タイ暮らし、より)
やはり面白い。社会、文化、時代によって変わる「美の基準」
あなたにとっての「美人の定義」とはいったいなんだろうか。
どんな容姿の女性を美しいと感じるだろか。
タイ人女性は色白の肌に憧憬し、それは日本人の想像する以上に美人の条件として根強いものとなっている。男性も色白の女性を美人と呼び、自然と求めるようになる。だから、色白の女性はモテる傾向にあるし、例えば男女を問わず結婚相手として色白の相手を理想とするような風潮も生まれるわけである。
タイ社会の上層へ進めば進むほど結果的に肌の色が薄まってゆく。そのカラーはいつしか社会階層を象徴するものとなり、羨望、憧憬、理想といった感情を伴いながら美人、美男子の条件としてタイ人の感性の領域にまで入り込んでいったのかもしれない。
タイのセレブや有名な俳優、女優の中には白人とのハーフの方も多く、白い肌の色はもちろんだが、その欧米系の面立ちも一般人に羨ましがられているのかもしれない。
この辺りは、アジア全般に共通の「欧米コンプレックス」の類も絡んでいるように思えるし、日本社会にもそうしたきらいは少なからず存在していると思う。
中国系タイ人の存在感と色白信仰の関連性を述べてはきたものの、そうした社会階層だけが色白をよしとする感覚の元になっているわけではなく、単純な「無い物ねだり」や「欧米コンプレックス」、近頃ではみな揃って色白のK-POPスターたちの影響もあるのかもしれない。
当然のことながら、反対に、色黒の方が色白に憧れているという側面も無いとは言い切れない。
タイ人女性と付き合い、結婚するファラン(白人)たちにとっては、彼女たちの褐色の肌がエキゾチックな魅力として映っていたりもするわけであり、たとえば日本人の中にも小麦色の肌を好む人は少なくないと思う。人は自分の持っていない無い物に憧れる傾向にある。
もちろん、美に正解はなく、その判定は個々人に委ねられるわけだが、国や社会、そこに根付く文化によって好まれやすい要素や条件というものがある。
例えばある国や地域では「小麦色の肌」が羨ましがられるかもしれないし、「色白」がやけに好まれる社会もあるかもしれない。「高い鼻」が理想かもしれないが、「小さな鼻」に品を感じる文化もあるかもしれない。
社会や文化と同じく、時代も美人の基準を変化させる。
例えば現代ではスリムで手足の長い女性が美しいとされがちだが、かつては、現代の基準からするとむしろふくよかで恰幅のいい躯体をした女性を美しいと感じる人も大勢いた。
例えば、ルノワールの「裸婦」に描かれている女性は皆ふくよかで、それはルノワールの個人的な好みに過ぎないのかもしれないが、同時に当時はそうした「ぽっちゃり」体型の女性を美しいとする感性も一般的だったのかもしれない。
現在でも、アフリカ大陸のいくつかの国々ではそういった傾向がある。細みのモデル体型よりも、大きくて肉付きの良い女性をむしろ美人で魅力的だと感じる人々がたくさんいたりする。
それぞれの「タイプ」は別れるし、反対に美人は誰が見ても美人かもしれない。しかし、国や社会ごとに好まれやすい傾向と言うものがあるのは確かで、そうした「違い」の存在はとても面白い。
細かく見てゆけば、美の基準は文化や社会の成り立ち、伝統、メディアあど、あらゆる方面に影響を受け、時に「無い物ねだり」といった普遍的な感情も反映しながら多様な形を取って行く。
さて、白い肌に憧憬し、時に不自然なまでに色白であろうと務めるタイの人々の姿を見ていると、複雑な気分にならざるを得ない時がある。そんなにも白くあろうとせずに、ありのままの肌色でいいではないか、という思いに駆られるのだが、現在のタイ社会においてやはり色白であることは不動の憧れのようである。
「タイの美人観」も独特の偏りを持っており、とても興味深いものがある。
・参考書籍