トン・トライロング(三色旗)と呼ばれるタイ王国の国旗。赤は国家及び国民の団結心、白は宗教、そして青は国王を表している。 photo by Daniel Silveira
直立不動で敬意を表す
ある日の夕方、チェンマイの旧市街を歩いていた。通りはナイトマーケットの露店でひしめき溢れんばかりの人波で賑わいを見せていた。仮眠の後だった俺は、ぼうっとした頭でとぼとぼと歩いていた。こちらで知り合ったタイ人の経営するレストランに向かって。
知り合いの仲間の姿がレストランのテラスに見え、歩み寄った。ところが彼はなぜか屹立して通りの方を毅然と眺めたままだ。
(何か変だなぁ)。ぼうっと眺め違和感を抱きつつ、寝起き独特の心地よさに包まれながら近づいて彼に話しかけた。すると彼はなぜか厳とした顔でこう言い放った。
「You don’t move!」
刺々しい突飛な注意の、訳が分らなかった。俺は辺りを見回してやっと事態に気がついた。迂闊だった。午後6時の「あれ」だったのだ。
さっきまでの賑やかさから一転、溢れんばかりの人波は直立不動の石造群と化していた。どこかのスピーカーからはタイの国歌と思しき曲がびんびんと鳴り響いている。
(しまった、、、)。
事態を悟り、慌てて直立不動の姿勢に習った。知り合いのお仲間の頭ごなしの「動くな」には少々面食らったが、、、。(もうちょい優しく言えよ、、、)。逆に言えばそれほどタイでは重要な行為だったのかもしれない。
タイでは毎日朝8時と夕方6時に、公共施設、公園、テレビやラジオなどで国歌が流される。国歌が鳴り響いているうちは、道を歩く者、ベンチに腰を降ろしている者は、斉唱の義務こそないものの、直立不動の姿勢をとって国王や王室に対し敬意を表さなければならない。
俺はこの日の時点ですでに滞在期間が約2カ月に達していた。もちろんタイ国内だけで2カ月だった。しかしとても不思議な事に、この「儀式」に遭遇することはそれまで一度もなかったのだ。
したがって、依然としてこの敬意表示が俺の体にはよく染みついていなかった。くわえて寝起きの心地良さとぼうっとした頭のせいで、周囲の状況を把握するまでにしばらくかかってしまったのである。
旅の間は大抵、朝8時にはまだ夢かゲストハウスの部屋の中、もしくは国歌が耳に入らない路地やトゥクトゥクで移動中だったのだろう。
夕方6時の部も調度、宿の中で一休みしていたか屋台で晩飯に夢中だった頃だ。もしその時間帯に駅や公共の場に居合せたなら、とうぜん周囲のタイ人たち同様に立ち止まり敬意を表していたことだろう。
前々回短期でタイを訪れた際は、バンコクの北バスターミナルで調度夕方の国歌を耳にし、それまですたすたと歩いていた人々がピタリと直立で静止したのに驚きながら、慌てて真似たのを覚えている。
国王への敬意は絶対
(危ねえ危ねえ)。
彼がなぜ「you don’t move!!」とぴしゃりと言い放ったのかもまあ、よく分かる。単に私を「敬意に欠けた人物」として不快に思ったのかもしれないが(実際はただ単に気がつかなかっただけだが)、それにくわえて「不敬罪」というタイ独特の事情に慮ってのことだろう。
つまり、極端な話、国歌が流れている間に直立不動の姿勢を拒否するという態度は「国王に対する侮辱」という解釈も可能であり、たとえそれが外国人であろうと警察は「不敬罪」という罪で逮捕することが可能なのである。
映画館では映画の本編上演前に必ず王室歌が流される。その際にも当然起立して敬意の表示が求められる。この行為を拒否すれば同じく「不敬罪」で逮捕され兼ねない。
タイにおける不敬罪は刑法第112条によって定められている。
第112条 国王、王妃、王位継承者あるいは摂政に対して中傷する、侮辱するあるいは敵意をあらわにする者は何人も三年から十五年の禁固刑に処するものとする。Wiki
タイの不敬罪はとても厳しいことで有名なのだ。当然、彼はそのことを知っていたから、気が付かずに止まらなかった俺を注意してくれたわけだ。たぶん。
外国人旅行者の中にはこうったことを単なる「他国の習慣」という認識のもと意に介さず、「不敬」を貫く者もちらほらといるようだが、タイの法律ではそう言った行為は罪を問われ兼ねないのである。
このような環境の中、国王や王妃へのあからさまな侮辱や中傷が見過ごされるはずはない。newsclip.beのある記事によると、ついこの間も、タイの大学生の作った「風刺劇」が不敬罪に当たるとして禁固二年半の実刑が下されている。
2人は昨年から勾留されていたのだが、その劇は架空の王国が舞台とされており、劇中に登場する国王も架空の存在とされていたのだが、容赦なく豚箱にぶち込まれた分けだ。
※※※
1990年から2005年にかけての期間、「不敬罪」が適用されるケースはせいぜい年に4、5件ほどに止まっていた。ところが、元首相のタクシン派と特権階級を中心とする反タクシン派の政治抗争の激化に伴い、以降、次々にタクシン派が逮捕されていった。
つい先日も、タクシン派のタイ人男性が不敬罪容疑で逮捕されている。ミュージシャンの男(25)は、フェイスブックやツイッターにより拡散された「タイ宮内庁発表」を偽った偽造文書問題に関与しているされている。
「恩赦」による釈放
不敬罪で服役中だったタイ系米国人の男性は、2012年7月に国王の「恩赦」により釈放されている。彼は、タイ国内で発禁だったアメリカ人ジャーナリストによるプミポン国王の評伝をタイ語に翻訳、自身のブログにその一部を掲載したことが原因で、タイを訪れた際に捕まっている。
2007年には、国王のポスターに黒ペンキを噴射したスイス人男性が、2009年には著書で王室批判したオーストラリア人男性が逮捕されたが、二人とも数ヶ月の服役の後に釈放されている。
SNSやLINEも監視下
過去には携帯メールやSNSで王室批判した市民が捕まった事例もある。最近のThe Nationの記事によれば、タイの軍事政権が「政府はタイの国民が毎日Lineを使って送っている4000万通近くのメッセージのすべてをモニタできる」とはっきりと述べているという。
タイの至る所で様々なファッションに身を包んだ国王と出会うことができる。
バンコクのゲストハウスに滞在中、オーナーとのなにげない会話の中でタイの国王の話に展開した。俺がその時軽い気持ちで発した一言に、彼女は人差し指をすっと唇に当て「気を付けなさい」と戒めた。最悪の場合「捕まるわよ」と。俺は突然彼女が真顔になったので少々びっくりした。
それは、決してタイの国王を批判するつもりではない軽い気持ちで発した意見だったのだが、その時の彼女の反応を見て、この国における「不敬罪」の厳しさがひしひしと感じとれる、そんな一件だった。
タイ人の彼女のなかには日々の暮らしの中でしっかりと浸透した「タブーへの感覚」があった。
その時タイ社会の深層に一瞬だけ触れたような気がしたと同時、ちょっとした怖さと圧迫感が芽生えた。その時はまだ「不敬罪」という言葉もよく分かったいなかったのだが。
タイは王室を中心とする国家。たしかに王室への忠誠は尊くとても美しいものだと思う。同時に、言論の自由もまたしかり、尊いものだ。賛否両論の中、タイの「不敬罪」は今後どのような姿や色合いを成してゆくのだろうか。