人生と言う旅に、後悔しないために
人は誰もが悔いのない人生をまっとうしたいと思っている。
しかし、29年しか(も?)生きていない私ですらすでに、後悔とはいかないまでも過去の選択が本当に正しいものであったのかどうかふり返ってみては様々な思いを巡らせることはよくある。
「あの時ああしておけば」
「いや、あの時の自分にはあの選択しかできなかったのだ」
結局行きつくところはいつも同じだ。
「過去の経験から学ぶべきことはしっかりと学び、現在、そして未来に活かしていくしかないという非常にシンプルな一点に思考は収斂される」
よく「人生は旅のようなもの」と言うけれど、私も自分の人生に後悔を残したくないから、だからやりたいことの一つである「旅」をしようと思い立ったりするのである。
このブログで書き記しているタイ旅行のことや発信されたあらゆる情報、そしてこれからも一人旅を続けながらブログ執筆を続けていきたいこと、その先にノンフィクションやルポルタージュの執筆を目指していることも、すべては「悔いを残さないため」なのだと思う。
後悔をしないために、先人の後悔から学ぼう
死期の迫る患者さんたちのケアに当たったオーストラリアの看護師Bronnie Wareさんは、死を目前にした人々が何を後悔する傾向にあるのかを知りました。
その後悔は、以下のTOP5に分けることができるそうです。参照元(専門家ProFile「悔いのない人生をおくるための5つの言葉」)
「自分自身に忠実に生きればよかった」
自分の心に忠実に生きる。これは私も常々意識していることだが、まだまだ改善の余地はあると思う。
自分に忠実に生きるには相当なエネルギーをが必要で、あらゆるジレンマや摩擦、困難を乗り越えてゆかなねばならない。
そもそも「自分が何を欲しているのか」を把握していなくてはいけないし、それは簡単に分かることでもない。
しかし、心の声に耳を傾けてみれば、答えはおのずと見えてくるはず。自分と向き合い、考え、行動に移すのは決して楽なことじゃないかもしれないが、しかし怠慢が後悔へとつながるのなら、トライしない理由などどこにもない。
「あんなに一生懸命働かなくてもよかった」
充実感を得られる仕事なら、働くほどに幸福は膨らんでいくのかもしれない。私も基本的にはそう思っているのだが、幸か不幸か、まだ天職と呼べるものに出会ってはいないし、「あんなに一生懸命働かなくてもよかった」なんて言えるほどシャカリキになって働いた経験もない。良くも悪くもこのままいくとそんな風には思えそうもない。
ただ、自分の好きな仕事をしていれば、それほど後悔することなどそうないのではないだろうか?
しかし、いくら仕事が充実していたとしても、仕事以外にも人生の価値は見出すことができそうだ。いつもでも、あらゆる可能性の探求を忘れたくない。感度のよいアンテナを常に持ち続けていたいものだ。
「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
勇気を出して自分の気持ちを人々に伝えることができているか、もう一度よく考えてみる必要があるかもしれない。
私は割と何でも正直に表現する方だが、それでもどこかで諦めて口を閉ざしたり、人を選んでいたり、自分を押さえつけてしまうことはある。
自分も、相手も、生きているうちしかコミュニケーションをとれない。ぶつかることを恐れてはいけない。
「友人関係を続けておけばよかった」
つまらないことで友人関係にひびが入ってしまったり、いつの間にか疎遠になってしまったり。せっかくの出会いをもっと大切にしたい。
私の場合、自分の人生がうまくいっていない時、会える友人と会いたくない友人がいる。自分のプライドや防衛本能から「今は会いたくない」となってしまうのだが、そんなもの「死」を目前にしたらほんとうにとるに足らないことだろう。
「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」
「幸せ」。これも難しい言葉。いま自分は幸せだろうか。少なくとも不幸ではないと思うが、幸せかどうか問われれば微妙だ。
幸せどうしても相対的な判断になってしまいがち。あの人よりは幸せかもしれないけど、あちらさんほどでもないな、という風に。
しかし、これでは自分の幸せの基準を外部にゆだねてしまっていることになりはしないか。自分の幸せは自己の内側でしっかりとはかれるようにしたい。そうすれば、狼狽する必要もなくなるのではないか。
「死のイメージ」を持つ事の重要性を知る
やはり最大の敵は「怠け心」や「怠慢」だと思う。無我夢中になれることがある人はかなり幸せであり、ほとんどの人は自分の「やりたいこと」ですら怠けてしまい「やれない」場合がある。それをやるだけの時間やお金があったとしても、である。
それは単に怠慢である。そしてこの怠慢は「死のイメージ」を使って撃退することができるかもしれない。今やらなければ後悔する、そう思ったら次の瞬間には行動を開始する。
しかしここに述べてきたことは誰もがすでに分かっていること。要はどれだけ継続できるかどうか。
死というものをいかに身近に感じながら日々生きることができるか、だと思う。
「一度死を見た人は変わる」というのはそう言うことなのかもしれない。
「死」への緊張感を持ちつつ、過ぎ去ってしまった時間や出来事を前向きに解釈できるかどうかも大切なことかもしれない。
一見すると無意味な出来事や徒労のように思えた過去のことも、自分に都合の良い視点や角度で眺めて前向きにとらえてしまうずうずうしさは役に立つ。
じつは「オリジナルの人生」という作品をこしらえるのに必要な尊いプロセスだったのだという風に捉えることもできるかもしれない。明日への貴重な糧として認識できるようになるのではないだろうか。
いくら「後悔しないように」と頭では分かっていても、それでも幾ばくかの後悔が残ってしまうのかもしれないし、悔いと共に生きることが必ずしも悪であるとは言えず、人生の難しさや奥深さのようなものを感じずにはいられない。
それでも、私たちが生きる態度としてはやはり、可能な限り後悔を事前に回避できるように、緊張感を持った日々の選択をしていきたいものである。
自分が人生を終える時に「俺の人生に後悔なし」と心から言って死ねたらどんなに幸せだろうかとつくづく思う。